【共通テスト2024】世界史B解答・解説①

 

 


はじめに

今回から全4回にわたって、2024年1月13日(土)に実施された「大学入学共通テスト世界史B」の解説をしていきます。

問題は次のURLよりご確認ください。

https://www.fukuishimbun.co.jp/common/dld/pdf/fe46d519cdc0e50ef3d02621341ca73c.pdf

 

今回は第1問の解説です。

 

 

難易度

主要予備校による分析は以下のとおり。

 

東進:昨年並み

河合:やや易化

駿台:昨年並み

代ゼミ:やや易化

 

個人的には「やや易化」かと思います。

昨年までは歴史学の方法論に触れる難問が見られましたが、今年はありません。

史資料の読取問題は多いですが、内容自体は簡単になっています。

基本的な知識をもとに、どれだけ正確に、速く読み取れるかが鍵だと思います。

 

第1問 様々な地域や時代に見られた体制と制度

A 中国における王や皇族の制度上の位置づけ

問1 〔 1 〕封建制・郡県制【知識(+読取)】

① 正解。資料1で、李斯は「周王は、一族や功臣に封土を分け与えて諸侯としたが、その後疎遠となって攻撃し合い、周王は制御できなかった」と述べている。

② 誤り。資料1で、李斯は「一族や功臣は租税によって手厚く養うことで制御できる」と述べている。

③ 誤り。資料2で、博士の一人は「周王朝が長く続いたのは、一族や功臣に封土を分け与えて諸侯とし、王室を補佐させたため」と述べており、一族に政治上の権力を持たせたことを、封建制の利点として挙げている。

④ 誤り。資料2で、博士の一人は、一族が帝室を補佐する担い手となることを、封建制の利点として挙げている。

 

補足

知識だけでも解ける。

・李斯は始皇帝に仕えた法家の学者で、封建制の採用などで重要な役割を果たした。

・周は封建制(一族や功臣に政治的権限を与える)。

・秦は郡県制が採用(中央から官僚を派遣)。

これらを踏まえると、

封建制の問題点を的確に把握しており、正しい。

② 郡県制を周が滅んだ原因としているため、誤り。

③ 一族に政治的権限を持たせないのは郡県制であるため、誤り。

④ 一族が帝室を補佐するのは封建制であるため、誤り。

と判断できる。

 

 

問2 〔 2 〕魏と西晋の政治【知識】

( ア )に入れる人物の名は、直後に「( ア )に魏が皇帝の位を奪われた」とあるので司馬炎

争乱の名は、資料3が西晋の争乱について述べているので八王の乱。よって、正解は④

 

補足

司馬炎:265年、魏の皇帝から禅譲を受けて西晋を建国。280年、呉を滅ぼし中国統一。

 →八王の乱:3世紀末に始まる西晋の司馬氏の内乱。

呉三桂:李自成の乱に乗じて清軍を先導し、北京入城を遂げた。

 →三藩の乱:1673〜81年。清朝康熙帝藩王勢力削減策に対し、呉三桂らが起こした。

 

 

問3 〔 3 〕前漢と明の政治【知識+読取】

 明初の官僚は、「一族の諸王を目下の重大な問題としてとらえ」「前漢西晋の先例を挙げて警鐘を鳴らす」とある。この2点を踏まえ、前漢または西晋におきた諸侯による反乱を選ぶ。よって、争乱は(う)呉楚七国の乱が正しい。赤眉の乱は新、黄巾の乱後漢の時代の農民反乱。

 出来事については、「一族に対する分権の弊害が現れた」とあるので、同族内でおこった出来事を選ぶ。よって、靖難の役を指す(Y)が正しい。朱元璋は貧農の生まれであり、紅巾の乱で頭角を現し、後に明を建国。

 以上を踏まえて、正解は⑥

 

補足

・呉楚七国の乱(前154):前漢。郡国制の下での有力諸侯である呉王・楚王などの七王が起こした反乱。

赤眉の乱(後18):王莽の建てた新に対する農民反乱。後漢の劉秀(光武帝)により鎮圧

黄巾の乱(後184):後漢太平道が始動した農民反乱。

・紅巾の乱(1351):元。白蓮教徒を中心とした農民反乱。

・靖難の役(1399-1402):明。建文帝に対する叔父燕王の反乱。

 

 

 

 

B イングランドエドワード(証聖王)の死後に見られた政治的動き

問4 〔 4 〕オットー1世の事績【知識】

 空欄( イ )の前後に「10世紀」「ローマ教皇から戴冠」「神聖ローマ帝国の起源」とあるので、空欄( イ )はオットー1世。

① 誤り。メロヴィング家の王を廃位したのは、ピピン(小ピピン)。751年、カロリング朝創始。

② 誤り。レオ3世による戴冠はカール大帝。オットー1世は962年、教皇ヨハネス12世によって戴冠。

③ 誤り。カタラウヌムの戦いは、フン人のアッティラが西ローマ・ゲルマン連合軍に敗れた戦い。451年。

正解マジャール人を撃退した。オットー1世は955年、レヒフェルトの戦いでマジャール人を撃破。

 

 

問5 〔 5 〕ノルマンディー公ウィリアムのイングランド征服【知識+読取】

 下線部bの人物について、「ノルマンディー公による1066年のイングランド征服」とあるので、人物名は(あ)ウィリアム。

 資料1・2については次のとおり。

X 誤り。資料1によると「ハロルドが、イングランド中の最有力の貴族たちによって国王に選ばれた」「エドワード王が死の前に、王国の継承者として指名していた」「ヨーク大司教によって、国王にふさわしく正式に聖別された」とある。

Y 正しい。資料2によると「エドワードが彼(ノルマンディー公)に与えた王国を譲らなかった」「ハロルドもそのことを認めて宣誓していた」にもかかわらず、「(ハロルドが)自ら行った宣誓を破り、嘘をついた」とある。教皇に対し、ノルマンディー公はイングランド征服を認めるよう望んでおり、ハロルドによる王位継承に反対していることがわかる。

Z 誤り。資料1はイングランド側の認識を示し、資料2はノルマンディー側の認識を記述したものである。

よって、正解は②

 

補足

・ノルマンディー公ウィリアム:ヘースティングスの戦いでハロルドを撃破し、イングランドを征服。1066年、ノルマン朝創始。

・クヌート:1016年、イングランドを征服し、デーン朝創始。北海帝国を築く。

 

 

問6 〔 6 〕イングランドとヨーロッパの諸地域【知識】

① 誤り。エリザベス1世は「わたしはイギリスと結婚した」という言葉のとおり、生涯結婚することはなかった。また、イギリスがオランダ独立戦争を支援したことを受けて、スペインのフェリペ2世は「無敵艦隊」を派遣しており、エリザベス1世とフェリペ2世は対立している。

正解フランドル地方は毛織物生産で繁栄しており、原料である羊毛をイギリスから輸入した。

③ 誤り。ジョン王は、仏王フィリップ2世に敗れた。フィリップ4世は、教皇ボニファティウス8世と対立し、1302年に三部会を召集した。また、1303年、アナーニ事件で教皇を憤死させ、1309年には教皇アヴィニョンに移した。

④ 誤り。共和政期のイングランドで出されたのは航海法。大陸封鎖令はナポレオン1世による。

 

 

 

 

C イギリスにおける福祉制度の改革の歴史

問7 〔 7 〕ヴィルヘルム2世の事績と時代【知識+読取】

 「19世紀後半に入りイギリスでは、公的な年金制度の導入が本格的に議論」「重要な先例と考えられたのが、ドイツの老齢年金制度」「ドイツの洗礼を踏まえて、イギリスでは1908年に老齢年金法が成立」とあるため、19世紀後半〜1908年の間にドイツの老齢年金制度は確立していることがわかる。よって、④はあてはまらない。

 また、下線部dの直後に「ドイツでは、後に「世界政策」の名の下に海軍を増強した皇帝の治世下で、同制度(老齢年金制度)が導入されている」とある。19世紀後半に世界政策を採用したのは、1890年にビスマルクを罷免したヴィルヘルム2世である。ビスマルクが辞任した後の出来事であるため、正解は③

 

 

問8 〔 8 〕イギリス自由党グラッドストンの事績【知識】

 文章中に「年金制度の導入を主導したのは、かつて首相グラッドストンが率いた政党」とある。グラッドストンが率いたのは自由党である。自由党の政策を選べばよい。

正解1886年グラッドストンアイルランド自治法案を提出したが、議会を通過しなかった。

② 誤り。マクドナルドが率いたのは労働党1924年労働党自由党が連立内閣を組織した。

③ 誤り。スエズ運河株式会社の株を買収したのは保守党。1875年、ディズレーリ率いる保守党が買収した。

④ 誤り。フェビアン協会は後の労働党の母体である。

 

 

問9 〔 9 〕サッチャーの事績【知識】

 資料は「20世紀に国営企業の民営化を推し進めた首相」のインタビューに関するものであり、国営企業の民営化を推し進めたのはサッチャーである。 

サッチャーの改革の内容を選べばよい。

X 「ゆりかごから墓場まで」は労働党のアトリー内閣がめざした福祉社会制度。

Y 救貧法は1601年、エリザベス1世の時代に制定

Z 正しい。保守党サッチャー政権は、「小さな政府」を理想に掲げ、公共事業の削減と民営化を進め、福祉事業や社会保障を削減した。資料からも自助を促していることがわかる。

よって、正解は⑥

 

 

 

 

最後に

次回は第2問の解説をしていきます。