【世界史】教科書よりディープな人物史①-スパルタ王レオニダス

 

はじめに

アナトリア出身のギリシア人歴史家で、「歴史の父」と称されるヘロドトス

名著『歴史』は、ペルシア戦争を題材としていますが、彼自身がエジプトや中東地域をめぐり歩いた際の記録も記されており、諸国の民族誌も兼ねているといえます。

さて、『歴史』には、後半3巻にペルシア戦争の経緯が詳しく記されています。

 

今回はそこに登場するスパルタ王レオニダスに焦点を当てていきましょう。

 

 

 

 

 

1.古代ギリシアの成立

古代ギリシアといっても、現在のギリシアという国家は存在しませんでした。

インド=ヨーロッパ語系民族であるギリシア人が、ギリシア各地に移動・定住し、方言別にポリスと呼ばれる都市国家を建設しました。

そのポリスの集合体を指してギリシアと呼びます。

定住後のギリシア人は方言によって、東方方言群(イオニア系・アイオリス系)と、西方方言群(ドーリア系)に分類されます。

前20世紀以降に南下してきたイオニア人アテネアテナイ)を、前12世紀以降に南下してきたドーリア人はスパルタなどを建設し、次第にギリシア世界は形成されていきました。

各ポリスは恒常的な戦争状態にあり、小競り合いを続けていました。

しかし、バルバロイと呼ばれる異民族が攻めてきた場合は、各ポリスは盟約を結んでギリシア防衛のために戦いました。

 

 

2.アケメネス朝とギリシアの戦い

ギリシアエーゲ海を隔て、アナトリア小アジア)と接します。

このアナトリア西岸には、ミレトスなどギリシア人植民市がありますが、これらの植民市はペルシアのアケメネス朝に支配されていました。

アケメネス朝第3代の王ダレイオス3世は、エーゲ海東部・エジプトからインダス川流域に至る最大領域を築きあげました。

しかし、この領土拡大の過程で、諸民族との戦争は避けられず、莫大な戦費を必要としました。

そこで戦費を調達するためにギリシア人植民市に課税したため、ミレトスを中心にアケメネス朝に反発した植民市はギリシア本土に援助を求めました。

これにアケメネス朝のダレイオス1世は激怒。

前494年にミレトスを攻撃して破壊しました。

勢いづいたダレイオス1世は、前492年にブルガリア南部とマケドニアを征服し、これに呼応して大艦隊もギリシア上陸を目指します。

しかし、オリンポスの神々はギリシアに声援を送り、大暴風で艦隊を打ち砕きました。

怒り心頭のダレイオス1世は、前490年、その暴君ぶりからアテネを追放された僭主ヒッピアス(ペイシストラトスの子)を自軍に迎え、アテネ領のマラトンへ上陸しました。

ダレイオス1世は一挙に攻め落とそうとしましたが、ミルティアデス率いるアテネ・プラタイアの重装歩兵軍は、右手に長さ5mを超える槍を、左手に丸盾を持ち、自分の盾で左側の味方を守り、自分は右側の味方に守ってもらうという、密集隊形(ファランクス)を組んでペルシア軍を押し返しました。

 

 

3.スパルタ王レオニダス

前485年、ダレイオス1世が没し、嫡子クセルクセスが即位しました。

父の雪辱に燃えるクセルクセスは、前480年に自ら自軍を率いて再びギリシア遠征へ向かいます。

ダーダネルス海峡を押し渡り、ギリシア本土を南下しました。

この急展開において全ギリシアの衆望を担ったのが、スパルタ王レオニダスです。

スパルタはペロポネソス半島の山間に位置するポリスです。

ここでは市民のほぼ10倍にのぼる奴隷たちが生産労働に従事して市民の生活を支えていました。

スパルタ人は奴隷反乱を抑止するため男子市民には厳格な兵役義務が課されました。

 

アイリアノスの『ギリシア奇談集』によると、スパルタには次のような規制や習慣があったそうです。

 

・散歩禁止令

どんな場でも一番大事な事柄に時間を振り向け、くつろいだり怠けたりして時間を費やすことは許されなかった。ペロポネソス戦争の最中の前413年、アテネ軍の拠点であったデケレイアという場所を占拠したスパルタ軍の兵士が、午後の散歩をしているとの知らせを受けたスパルタ本国の監督官たちは「散歩をしてはならぬ」という手紙を送った。スパルタ人たるもの散歩によってではなく、鍛錬によって健康を維持すべきである、というわけである。

 

・肥満は敵

スパルタの法律では、色白の肌と肥満は禁止されていた。それは体育による鍛錬を怠った男子の証拠とされたからである。この法律には付加条項があって、成年男子は必ず10日に一度、衆人環視の中で、監督官の前に裸を晒さなければならず、鍛錬の跡がみられる頑丈な体であれば表彰され、怠惰のため脂肪がついて多少ともふくれあがった理、四肢のどこかに弛緩した軟弱な部分があった場合には、鞭で打たれて処罰される。

 

など・・・。まさに「スパルタ教育」ですね。

このようなスパルタの軍国主義体制は「リュクルゴスの制」といいます。

スパルタはまた、実質は民主制でありましたが、国王によって統治されていました。

当時王位に就いていたのがレオニダスです。

 

 

 

 

4.王の“決死”の覚悟

レオニダスは、アギス朝のアナクサンドリデス2世の三男として生まれましたが、兄2人が亡くなったため、長男の一人娘と結婚して王位に就きました。

戦いに先立ち、デルフォイの神託を聞いたところ、

 

「汝らの誉れ高き大いなる町は、ペルセウスの裔なる子(ペルシア人)らに滅ぼされるか、さもなくばヘラクレスの血統に連なる王の死をば、ラケダイモン(スパルタ)の国土は悼むことになろうぞ」

 

という内容でした。

つまり、スパルタはペルシアによって滅ぼされるか、スパルタ王が死ぬか、いずれかの結末を迎えるというお告げを受けたのでした。

レオニダスは即座に死を決意し、他のポリスから来た援軍を返しました。

しかも、この年は4年に一度のオリンピアの祭典と重なっていたため、各ポリスも援軍を割く余裕はありませんでした。覚悟を決めたレオニダスは、スパルタ軍の精鋭300人とテーベ軍などを率いて出陣しました。

出陣に先立ち、彼は妃に、「私はこの戦いで確実に死ぬ。よき夫と結婚し、よき子どもを生め」と言い残しました。

 

まさに“決死”の覚悟を決めたのでした。

 

 

5.テルモピレーの戦い

ギリシア連合軍は、ペルシア艦隊をアルテミシオン沖で、地上軍をテルモピレーの隘路に配置する決定を下しました。

隘路であれば、少数の兵力で少数の兵力でも大軍を防ぐことができるからです。

そして、この防衛を引き受けたのがレオニダスでした。

戦いが始まると、20万というペルシア軍の多さに圧倒され戦線は混乱しました。

ペルシアのクセルクセスもギリシア軍の動揺を察知し、ギリシア軍はやがて撤退するだろうと4日間静観しましたが、ギリシアに撤退の動きは見られませんでした。

とうとう5日目にして総攻撃が命じられました。

テルモピレーは背後には険しい山、眼前には海という立地で、最も狭い箇所で道幅は15m程度でした。

これではペルシアは主力である騎兵部隊を展開することができません。

このため苦戦を強いられ2万の死傷者を出すことになりました。戦闘2日目の夕方、クセルクセスはヒュダルネス率いる不死隊を投入しました。

不死隊は、一人の兵士が倒されてもまた別の新しい兵士がすぐに補充され、戦闘に加わったことから、ヘロドトスがその呼称を用いました。

しかし、街道に沿って構築された城壁を利用してギリシア軍は果敢に対抗して撃退しました。

ペルシアの斥候は、ギリシア軍が追い詰められているにもかかわらず髪に櫛を当てて余裕をみせているという報告をもたらしました。

クセルクセスはその意味を察しかねていると、ギリシア人顧問が「生死を賭して事を行わんとする場合には、頭髪の手入れをするのが彼らの習わしとなっている」と言ったそうです。

この言葉を聞き、クセルクセスは焦りを募らせました。

そのとき、エピアルテスというギリシア人が、クセルクセスに助言を行いました。

山中を抜けて海岸線を迂回するルートがあるという内容でした。

これを利用すればスパルタ軍の背後を突けるわけです。

この道案内を受け、不死隊はスパルタ軍の背後に回り込むことに成功しました。

これを知ったレオニダスは、撤退を主張する各軍を返し、徹底抗戦を主張する140人の兵とともにテルモピレーにとどまる決意をしました。

 

 

6.レオニダスの死

午前中に迂回した不死隊はギリシア軍の背後に到達しました。

クセルクセスはギリシア軍に投降を求めましたが、レオニダスの答えは

 

「モーロン・ラベ(来たりて取れ)」。

 

ついに激戦が始まりました。

スパルタ兵は槍が折れると剣で、剣が折れると素手と歯で戦いましたが、激戦の最中についにレオニダスも力尽きました。

 

「旅人よ、ラケダイモン人に伝えよ、我らかのことばに従いてここに伏すと」-討死にした者たちの墓碑にはこう記してあったとヘロドトスは記録しています。

このレオニダスとスパルタ軍の犠牲があったからこそ、アテネの海軍は時間を稼ぎ、主力艦隊を温存させてサラミス海戦に勝利することができたといえるでしょう。

また、スパルタの王族パウサニアスは、遠征中の奴隷反乱を危惧し、プラタイアに軍を送るか迷っていました。そこで「レオニダスの仇を討て」という信託を受け、ペルシア全軍と戦う決意を固めました。

プラタイアの戦いでは1万のスパルタ重装歩兵が動員され、30万のペルシア全軍を打ち破り、ギリシアは独立と自由を守りました。

 

王の“決死”の覚悟がギリシア世界を救ったのでした。

 

 

最後に

今回はスパルタ王レオニダスにスポットライトを当てました。

テルモピレーの戦いで粉砕したレオニダスと300のスパルタ兵を主題にした作品が制作されています。

1962年には映画『スパルタ総攻撃』(米)、これを少年時代に観たフランク・ミラーによる『300』が1998年に出版され、高い評価を得ました。

これを受けてザック・スナイダー監督が映画化した『300〈スリーハンドレッド〉』が2007年に公開、2014年には、サラミスの海戦を主題にした『300〈スリーハンドレッド〉〜帝国の進撃〜』も公開され、いずれも大ヒットとなりました。

 

ただし、これらの作品は西洋側の視点を強く反映したものであり、“ギリシア”を正義、“ペルシア”を悪かのように描かれる描写も多いため、史実として鵜呑みにするのは適切ではありません。

アケメネス朝をめぐる評価や解釈については視点によってそのあり方が大きく変わります。

例えば、西洋史の視点からは、クセルクセスはギリシア遠征に失敗した敗北の王として捉えられることがありますが、ペルシア側から見れば、ギリシアとの戦いは彼が行った遠征の中の小さな出来事に過ぎません。

クセルクセスが最も重視したのはバビロンの反乱であったとされています。また、クセルクセスの死についてもギリシア語文献とバビロニアで発掘された粘土板とで内容が異なります。

 

用いる史資料によって解釈が異なるのが歴史の難しさであり、面白さでもありますね。

 

以上、スパルタ王レオニダスについての記事でした。

お読みいただき、ありがとうございました。

 

参考文献・サイト

鶴岡 聡『教科書では学べない 世界史のディープな人々』中経出版、2012年

レオニダス1世 - Wikipedia

レオニダス