【世界史】教科書よりディープな人物史②-教皇ボニファティウス8世

 

はじめに

本日、1月25日が何の日かご存知ですか?

ヒントは1077年の出来事です。

 

そう、世界史の授業でお馴染みの“カノッサの屈辱”が起こった日です。

 

1077年、北イタリア山中のカノッサ城において、神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世が3日間、雪が降りしきる中で許しをこい、教皇グレゴリウス7世が破門を解いた事件です。

両者は聖職叙任権をめぐり対立しており、教皇首位権とドイツ内の皇帝支配権の確立をめざす双方の利害対立を背景としていました。

 

最終的にはグレゴリウスが破門を解いており、教科書では「教皇の優位性」を示す事件として扱われていますが、事件後、ハインリヒはローマに侵攻して自ら擁立した新教皇から皇帝の冠を受け、グレゴリウスを追放しています。

 

このように一悶着あったものの、教皇の権威は世俗の権威に対して優位な立場にありました。

その結果、教皇と高位聖職者の生活は贅沢を極め、もはや聖職者と言えないほどに腐敗していきました。

 

今回取り上げるのは、そうした時代を残酷に写し出した教皇ボニファティウス8世です。

 

人名自体は教科書には載っていますが、それ以上に深掘りした内容となっています。

授業のネタや、受験勉強の合間の読み物にしていただけると幸いです。

 

 

1.地獄に堕とされた教皇

1265年、のちにイタリア最大の詩人と評される人物がフィレンツェに生まれました。

名前は“ダンテ”。

イタリア=ルネサンスの先駆者としてお馴染みですね。

2024年共通テストの第4問〔 28 〕にも登場した超重要人物です。

 

彼の代表作『神曲』は、1300年の聖年にダンテが異界に迷い込み、古代ローマの詩人ウェルギリウスなどの先導のもと、地獄・煉獄を巡り、天界で心の恋人ベアトリーチェに出会うという話です。

ロマンティックな作品に思われますが、『神曲』は原題『Divina Commedia』(神聖喜劇)とされたように、実は政争やスキャンダルなど刺激的な話題も含まれています。

第1部の地獄篇では、ダンテに死刑を宣告し、彼を亡命に追い込んだ憎き政敵たちが、地獄で苦しむ様子が描かれているのです。

 

その中に、逆さまに生き埋めにされ、燃やされている教皇の姿があります。

彼の名は“ボニファティウス8世”です。

 

 

2.無名の修道士が教皇に即位

意にそぐわない者を破門しまくり、「教皇は太陽、皇帝は月」と豪語した教皇インノケンティウス3世の時代が終わると、教皇権はその力を急激に失っていきました。

十字軍の聖地奪還が失敗に終わったからです。

十字軍とは、教皇ウルバヌス2世の提唱により派遣された、聖地イェルサレムイスラーム勢力から奪還するための遠征軍です。

正式には計7回の遠征が行われていますが、第1回の成功以後はその大義を失っていきました。

この結果、教会と教皇の権威は衰え、反面、時代はイスラーム商人との商売を通じて富を蓄えた商人や、敵地で討死した諸侯たちの領地を没収して権力を強化していった各国の王たちが台頭していきます。

こうして中世から近世へと移行する土壌ができていきました。

 

しかし、こうした情勢についていけなかったのがローマ=カトリック教会、とりわけ教皇でした。

 

教皇は11世紀以降、その聖職者の諮問機関である枢機卿の秘密会で選出されるようになりました。

この教皇を選出する枢機卿の秘密会を“コンクラーベ”といいます(ラテン語で“鍵がかかった”の意)。

これが糾弾に糾弾を重ね、なかなか教皇が選出されません。

意見が一致するまで選挙は延々と続きます。

 

このため、時には繋ぎとして無名の人物が教皇に選出されることがあります。

教皇空位という事態が2年も続いた1294年、生真面目な修道士ピエトロ・ダ・モローネが、ケレスティヌス5世として即位しました。

 

しかし、ケレスティヌスはローマへ行かず、自らの身辺をナポリ国王カルロ2世に委ねてナポリへ居住していました。

ケレスティヌスの意思で教皇に立候補したわけでなく、政争の道具として利用された格好であったため、当人にとっては一種の災難だったのでしょう。

まもなく彼は「ただちに教皇職を辞し、隠者の生活に戻れ」という声に悩まされるようになりました。

毎晩この声に悩まされ、不眠の夜を過ごしたケレスティヌスでしたが、これは実は相談相手となっていた教皇官房のカエターニ枢機卿が、部下に教皇の寝室まで伝声管を引かせて、夜な夜な自ら囁いたとされています。

これにより不眠症と神経衰弱に追い込まれたケレスティヌスは、カエターニの助言により「教皇に選ばれた者は、選出を拒否する権利をもつ」という法令を出し、半年足らずで教皇を退位しました。

 

では、教皇に助言しつつ、教皇を合法的に退位に追いやったカエターニ枢機卿とは誰か。

彼はローマ南東アナーニの名門の生まれで、1234年に誕生しました。教皇の別荘があるスポレトで教会法を学び、パリやローマの聖堂参事会員を務め、1276年には教皇庁に入りました。そして、枢機卿に就任し、さらに教皇特使としてフランス・イタリアを往復し、聖界・政界で顔を広げていきました。

 

このような野心家が狙うポストはもちろん教皇です。

そんな彼に、ケレスティヌス5世の即位と退位という千載一遇のチャンスが巡ってきたわけでした。

 

1294年、カエターニはついに教皇の座を手に入れました。

教皇としての名は“ボニファティウス8世”です。

 

 

3.“教皇”ボニファティウス

ボニファティウスは聖職者としては稀有な現実主義者でした。

最後の審判を否定し、敬虔な信者から悩みを打ち明けられても「イエスはわれらと同じただの人よ。わが身さえよう救わなんだ男が、他人のために何をしてくれようぞ」と言ったそう。

 

なんとドライな・・・。

 

彼は美食や華美を愛し、宝石を散りばめた衣服を身にまとい、金銀の宝飾品を身につけていました。

賭博も大好きで教皇庁はカジノと化しました。

夜な夜な怪しげな男女が出入りすることもあったといいます。

しかし、彼が何よりも愛したのは絶対的な権力でした。

 

 

4.教皇勅書-教皇の権威はあらゆる権力で優越する

しかし、前述のとおり、教皇が権力を振るう時代はとうに終わっていました。

フランス王フィリップ4世(美王)は、祖父であるルイ9世(聖王)がアルビジョワ派と呼ばれる異端と結んで王権に対抗していた南仏の諸侯たちを粉砕した勢いに乗って集権化を推し進めました。

実務能力を備えたレジストという官僚集団を集めて絶対王政化を進める一方、毛織物産業で栄えるフランドル地方の諸都市を征服するチャンスを窺っていました。

このための戦費を得るためフィリップは教会財産への課税に踏み切りました。

 

フランスといえば敬虔なカトリックの国です。

そして、教皇庁にとって重要な財源でもありました。

フィリップのこの動向は教皇を財政的に苦しめました。

 

これに対し、ボニファティウスは1300年を「聖年」に定めて盛大な採点を挙行し、すべての聖職者のローマ巡礼を強制して死後の天国行きを確約しました。

聖年を定めたのはボニファティウスが最初であり、それ以前には聖年を祝うことはありませんでした。

この目論見は大当たり、ローマには多くの巡礼者が集まり、フィリップの教会課税に苦しんだカトリック教会の財政は潤いを取り戻しました。

 

さらに、ボニファティウスは1301年に教皇勅書を発して、「唯一の聖なるカトリック使徒教会のみがある。教会は唯一の神秘体である。その頭はキリストである」とし、教皇の首位権を明らかにしながら「救済のために教皇に従うべきである」と宣言しました。

これはフィリップへの警告でしたが、彼は動じませんでした。

 

同年、フィリップはパリのノートルダムに聖職者・貴族・平民からなる会議を開催しました。

いわゆる“三部会”です。

フィリップの思惑どおり三部会は王を支持し、教皇の主張を拒絶しました。

 

これに対しボニファティウスは激怒し、フィリップを破門し、両者の決裂は決定的なものとなりました。

 

 

5.アナーニ事件、そして憤死

反発するフィリップは、国王顧問ギョーム・ド・ノガレをローマに派遣しました。

ノガレの両親はかつて異端審問で火刑に処されており、彼は復讐心に燃えていました。

一方、教皇に逆らったことで財産没収と国外追放の刑を受けていたローマ貴族のコロンナ家も教皇のもとへ向かいました。

 

1303年9月6日ボニファティウスは故郷アナーニの別荘に滞在していました。ノガレとコロンナは深夜に教皇御座所に忍び込み、退位を迫りましたが、ボニファティウスは「余の首を持っていけ」と平然としていました。

 

彼らはボニファティウスを3日間監禁しました。

結局は、教皇の身を案じて詰めかけたアナーニ市民によって、ボニファティウスは救出されました。

ノガレとコロンナは「教皇、万歳」と叫ぶ民衆の声に怯え退散しましたが、ボニファティウスの身にも死が迫っていました。

アナーニ事件から2週間後にバチカンに戻ったボニファティウスは、10月11日に息途絶えたのです。

教皇は死ぬ間際まで呪詛の言葉を吐き、奇怪な行動をとったと記録されています。

人はこれを“憤死”と呼びました。

(現実的には、贅沢三昧がたたって肝臓を患っていたという説が有力のようです。)

 

 

6.ダンテとボニファティウス

時間軸は前後しますが、前述のとおりダンテはフィレンツェに生まれました。

ダンテが生まれた13世紀のイタリアでは、教皇党(ゲルフ)と皇帝党(ギベリン)が争っており、フィレンツェもその例外ではなく、ダンテの家は代々ゲルフでした。

1289年、ギベリンの拠点を、フィレンツェを主力とするゲルフが攻撃し勝利を収めました。ダンテもゲルフの一員としてこの戦いに参加していました。

その後、フィレンツェのゲルフは、白派(新興勢力・民主化)と黒派(保守勢力)に分かれて党派闘争が始まりました。

ダンテは白派に所属し、要職に就きましたが、黒派が皆殺しにされる事件が発生すると、ボニファティウスはフィレンツェを破門しました。

さらにフランス王フィリップも軍隊を派遣してくると、1302年、白派政権は崩壊し、ダンテは死刑判決を受けました。

しかし、彼は直前にフィレンツェを脱出し、各地を転々としながら生活を送りました。

晩年はラヴェンナで執筆活動に専念し、1321年の死の直前まで『神曲』の完成を目指しました。

 

こうした背景があり、ダンテはボニファティウスを地獄へ堕としたのですね。

 

 

最後に

今回は、地獄に堕とされた教皇“ボニファティウス8世”について紹介しました。

アナーニ事件後憤死した教皇は、ダンテにも地獄に堕とされるという、教皇としては惨めな最期を迎えました。

いくら権力があると言えど、驕り高ぶるのは危険ですね・・・。

 

お読みいただきありがとうございました。

次回もよろしくお願いいたします。

 

 

参考文献・サイト

鶴岡 聡『教科書では学べない 世界史のディープな人々』中経出版、2012年

鈴木 宣明『ローマ教皇史』筑摩書房、2019年

ボニファティウス8世